昭和50年03月14日 朝の御理解



  御理解 第60節
 「おかげは受け徳、受け勝ち。」

 私は今朝の御祈念に、こんなお知らせを頂いた。大変高い山に頂上まで道がついているんです。それはその道がこうらせん型にこう、登って行く様になってるですね。山はこう直接には登られませんこうらせん型に。そこを自動車で走っておる所です。ですからもう言うならばもうカーブのあり通しなんです。それで私乗せて頂いてから思っておる事なのですけれども。是はちょっと油断すると向こうの崖に飛び込んでしまうたいと思う。そう言う所を頂いた。信心も山登りと同んなしと仰るのですから。ね。
 信心をさせて頂いて、山登りと同んなしという気持ちで何時もおりますと、信心はもう愈々進むに進んで行くばかりです。だから信心が進むとか、高められるとかと言う事は、どう言う事になるかと言うと。ね。例えば六合目、七合目八合目とか段々登って行けば登って行く程です、視野が広くなるです。ね。見える範囲が広うなって来る訳です。と言う事はね、それだけおかげの世界が広うなって行くと言う事ですから、登らにゃおられんです。おかげの世界が広がって行くのですから、ね、
 信心は山登りと同んなじと仰る、その登って行かなければおられない。おかげは受け徳受け勝ちというのは、ね、登れば登るだけおかげの世界が広うなるのですから。成程受け勝ちです。もう登ったモンんには勝たんちゅう事ですだから。ね。視野が広うなる登れば登る程視野が広うなる。もう頂上を例えば極めると例えばんなら、これは未納山なら未納山の頂上に登りますともうそれこそ筑後一園所ではない。向こうの有明海の方まで見えましょうが。此処から見ようなんて言ったって有明海なんか見やしません。
 勿論筑後平野のほんの一部、目の前しか分かりゃしません。それをんならこの未納山でも段々登って行って、中腹の位な所で腰掛けてこう見てご覧なさい。筑後平野がダーッとこう、開けて見えて来る。筑後川が海の様にこうやって流れておる事すらも分かる。段々極めて頂上へでも出ますとです。それこそお天気の良い日などは向こうの有明海の海の方までまで見えるんです。ね、私は今日は、其処の所の事からあの60節とは、頂くんだなとこう思うたんです。成程おかげは受け徳受け勝ちです。
 だからもう登った者徳を受けた者には勝たんという事です。しかもそれは受け勝ちなんです。ね。もうこん位で遠慮しとこうなんて言う事はいらん。視野に言うなら飛び込んで来るんです、景色の全体が。登れば登る程なんです。ね、皆さんだから、信心はね、矢張り本当に、ね、山登りと同んなじ事だと。言うならば一段一段高められて行けば行くだけおかげの世界が広うなって来る。
 おかげの世界と言うても、ね、それは心に受ける感じる、または金銭物質、様々な言うなら人間のいろんな幸福の条件というか、生活の条件というか。そう言う物が、こう身に付いて来るおかげと、心に頂くおかげとあります。昨日桜井先生がお知らせを頂いたと言われるのに、例のその大便所で沢山その、ライスカレーを便所の中で作っておる所を頂いたと。素晴らしいですねと言うて、まあ話した事でした。御結界の事を便所に例えて下さる。ね。ですからね小便所という所はまあ小さい便利。ね。
 ちょっとしたおかげと言う事でしょう。それこそもう此処に奇跡でも起こして貰わなければ助かり様がない、特別の言うならどういう、言うならば難儀な問題であってもです。ね。助かられる教会。教会はだからもう大小便所が足ろうた、言うならばおかげを頂かなきゃならん。
 今桜井先生達の場合なんかは、心にそれを頂いておられる所だろうと、こう思うです。ね。便所と言うと汚いけれども、それを御結界と頂かなきゃならない。そこに沢山な人がままになる所のご飯が、今出けておる所だと。と言う様なお知らせを頂いておられます。ね。自分の心の中に、それこそ豊に有り難く、もう一事が万事に実意丁寧の信心を現して行かなければおられない程しのおかげが身に付いて行っておる。ね、言うならば、視野が広うなって行きよる、おかげの世界が。ね。
 そういうおかげを、言わば受け勝ち的に受けて行かなければならん。昨日は十三日会で、皆さんお一人一人の本当に素晴らしい発表をなさいました。特に御用と言う事に付いてのお話が焦点になりました。御用も言わばピンからキリまで、様々なその内容を持つのですけれども。伊万里の小松さんという、お寿司屋さんですけれど。が、発表しておられました。十三日会というのは、私共が日々おかげを蒙っておるので、お礼の一日と思うております。だからお店も十三日を休みに致しました。
 そして朝から御用に出て来る。言うならば日頃頂いて、おるおかげの万分の一にも当たりませんけれども。ね、そのお礼の印を十三日の御用に現す。そういう思いで十三日会におかげを、まっ、楽しみを持ってご参拝のおかげを頂いておる、と言う事を言っておられます。ね。言うならばもうその十三日会の日は、まあそうしなければ居られないと言うのです。ね。私は信心はねせねばならんと。ね。というのではなくてです。ね、そうせねば居られないと言う所に信心がある。
 どういう例えば高い山に登りよってもです。ね。それが渋々であったらです。ね。一つ間違やねそのまま向こうの崖の方へ、飛び込んでしまう様な結果にもなりかねない。ね。有り難い勿体無きで登らせて頂いてこそ、初めて危険が伴うではなくて有り難い勿体無いで登って行ける。登って行きゃ行く程視野が広うなるという起こりになって来るのです。昨日私は教報が参りました。教報を読ませて頂いておりましたら。
 金光大神の例えば信心をです、世に現すと言う事に付いてのお話が載っておりました。ね。御取次ぎ成就信心生活運動が15年、そういう運動に取り組んで来たけれども。一つも御取次ぎ成就にならない。言うならば一向に言うならば信者は増えない。ね。そこで改めて今其処ん所が練り上げ検討されておる。金光大神の言うならば働きを生き生きと顕現して行く、現して行くと言う事に一生懸命、様々な努力精進をして見たと。けれどもまあ現す事が出けてなかった。
 そんな所を読ませて頂いておったら、あの此処の所を書かせて頂いております。現すではなく現れて下さる為の信心が先決だと言う事です。現すのではない。現れて下さる為の信心が先決。ね。合楽示現活動が一番、其処ん所を端的に解らせて貰うです。ね。合楽示現活動というのは、私共がおかげを受けておる、このおかげを受けておるというその喜びを人へ伝え、伝えて行くと言う事になって行くとです。ね。示現神様の方が示し現して下さる。奇跡も見せよう、おかげも現そう。ね。
 そこで合楽のおかげと言う事になって来るんです。神様も助かって下さりゃ氏子も助かって行くという、合楽の世界を言うならば現して行く。その現して行く前にです、私共が頂いておるおかげを自覚して。ね、そのおかげを神恩報謝の心を持って、人にも伝えても行こう、現しても行こうと言う心になったら、神様が先に立って、示し現そうと言うて居られるのが、合楽示現活動なんです。ね、
 神様の方が現れて下さる。合楽示現活動始まって此の方、合楽に生き生きとした言うならば、おかげが立ち始めたというのも、神様がね、私共が現すのではなくて、神様の方が現れて下さっておる。んなら現れなさる為にはどういう信心をしたら良いかと言う事が先決なのだ。ね。そこで私共が、信心は言わば山登りと同んなじと言われるのですから、信心を絶えず、所謂前向きの姿勢を持ってです。ね、少しはね、普通の山を登るのですからきついですけども、そのきつい事が有り難い。
 その登って行く事が有り難い。きついけれども、視野が広がって行くという事が楽しゅうして堪えんという信心にならなければならんと言う事になります。ね。中村さんのお話じゃないですけれども。ね。親鸞上人様と、言わば美緒吉さんの対話。ね。毎日毎日法話を聞きに来る、もう一番前に座って、一生懸命その法話を頂く。その美緒吉さんという、篤信の方に上人様が仰った。ね。美緒吉よ美緒吉よ。頂き過ぎてトンと落とすなという意味の言われたっち。ね。毎日毎日お話ばっかり頂きよるけれども。
 お話ばっかりを頂くが能ではないぞと。ね。それで返っておかげを落とす様な事になる事があるから、おかげをトンと落とすなよと言われた。そん時に美緒吉さんが答えて曰く、落ちるこの身は十八願、家と思えば危ないはなしと答えたち。ね。十八願というのが、言わば阿弥陀如来様の所謂神願、願い。又はお心例えば、そこは地獄であろうが、極楽であろうがです。阿弥陀如来様のお懐の中だと思うたら、例えばよし落ちるこの身は地獄の果てであっても、危なげが御座いませんと答えたちゅう。
 もうほとほと上人様が感心された。それ程しの悟りを開いておるなら、尚更毎日参って来んでも良いぞ、お話を毎日頂きに来んでも良いぞと言われた。それに答えて、また美緒吉さんが答えておる事はです。親様の事を思えば参らにゃおられんと言うたち。毎日毎日、精進様が一生懸命沢山な信者氏子の為に、ね、お勤め下さってあるご修行下さってある。その親様の事を思うたら、家にはジッとしてはおられんち。私は信心のね、もうギリギリの言わば、これは極地の世界だと思うです。
 おかげ頂かんなんけん参りよると言う様な事で山登りをしよってご覧なさい。おかげを頂いた時にはです、もう油断が出けて、それこそ向こうの方へ飛び込んでしまわねばならない様な結果になって来るんです。ね。けれどもその参らなければおられないち言う。昨日の伊万里の小松さんのがそうです。ね。十三日会の十三日だけは、お店を休みにさせて頂いてです。もう楽しんでその日は朝から午前中を御用に、午後を信心の研修をさせて頂く事を楽しみにお参りをして来る。ね。
 山登りが楽しゅうなって来る。視野は広がって行くというか、おかげの世界が広がって行くと言う事が楽しい有り難いね。そういう信心を先ずは先にさせて頂くと言う事になって初めてです、その信心の喜びがね、自分の周囲に伝えられる。言うなら合楽示現活動に参画させて貰う、と言った様な働きになって来る時です、神様の方が現すのではない。現れて下さるというおかげになって来る。ね、
 もう愈々持って受け徳、受け勝ちであります。ね。信心の愈々稽古をさせて頂いて。皆さんの例えば、んならその朝参りによって一生懸命、山登りを言わばなさっておられると同じ事。是をおかげを頂くまでと言った様な事で、例えばお参りをしておるとするならです。ね、必ず何処にか水が出ける、油断が出る。おかげを頂いたらやれやれと言う事になる。ね、自分の上らせて頂いておる信心のその過程と言う物がです、自分の身に血に肉になって行く事の有り難さ。ね。
 桜井先生なんかは、血に肉になって行っておる状態。ね。それが有り難い。ね。成程きつくはある。ね。けれども楽しくて有り難い。今私、今頂いた事ですけれども。あの西瓜をこう、切ったのがね、あのざれておる、ざれておる西瓜を、今こう一切れ頂きますよ。ざれておるというのは、もう過ぎておるとですね。もうふにゃっとなってるヤツです。ね、しゃぷしゃぷせん。すいかと言う事は、修行と言う事ですけども。修行には絶対このしゃぷしゃぷする様な瑞々しさがなからなきゃ駄目です。ね。
 ああこの修行が何時まで続くじゃろうかと言った様な、例えばああ眠うして堪えんちゅうごたる、ね、例えば朝参りであってはです。丁度それは、修行ではあるけれども、西瓜の修行です。ではと云う程しの修行ではあろうけれども、それは、西瓜がざれておる、もうふやけておる様な事になりますから。それでは有り難く頂けません。修行が有り難く頂けるという時こそ、ね、新鮮な味の良い、言うなら水のひたたる様な、言うなら修行な西瓜の時だと、私は思うです。ね。
 自分の修行に何時も絶えずそう言う所に、はあ今の私の信心は、こうして朝参りはしよるばってん、心に喜びも無からなきゃ感動もない。是はふやけておるのであるから。ね。是は心取り直さなきゃいけん、改めたまた修行させて貰わなければいけないという風にです、工夫さして頂きながら、信心は山登りと同じ事という信心を登らせて頂きながら、視野が広がって行く。愈々頂上を目指して、信心をさせて頂く。成程おかげは受け徳、受け勝ちだ。登れば登るだけ視野が広うなる。
 登れば登るだけおかげの世界が広うなる。成程おかげは受け徳、受け勝ち。けれどもですね、私共が高められれば高められる程、用心しなければならない事はですね、例えばやれやれきついという信心ではなくて、楽しゅう有り難いと言う物でなからなければならない。でないとですね、返っておかげを落とす様な事になる。と言う事を注意しなければなりません。今日はおかげは受け徳、受け勝ちという事をね、山登り。
 登れば登る程視野が広うなって来ると言う事を、おかげが広うおかげの世界が広うなって来るという風に聞いて頂きました。ね、それにはです分かっただけではいけん。美緒吉さんじゃないですけれども、もうそれこそんならおかげを確かに落としてもですよ、ね、山のこのラセン型の此処んとこを自動車で登りよる。そして油断をしてからツーッと曲がらんな真っ直ぐどん行くなら、向こうの崖なら崖に落ち込まなきゃならない。
 その落ちた所も矢張り天地の親神様の懐に間違いはないのだけれども。ね。信心の大きな悟り。ね。例えばどういう難儀な中にあっても、そこも矢張り天地の親神様のお懐の中だと思うと、危なげはないと言う事になりますけれども。ね。其処ん所をもう一つ進めてです。ね。親様の事を思うたら、家にジッとしてはおられないという信心が必要だと言う事を、今日は聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。